ほんやら洞・甲斐扶佐義 HONYARADO/KAI FUSAYOSHI's Web Site


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      *ほんやら洞・甲斐扶佐義のホームページ*


*下記の住所、電話番号は現在使われておりません。
〒602-0832
京都市上京区今出川通寺町西入ル大原口町229
《TEL》075-222-1574
《MAIL》honyarado.kai@gmail.com

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甲斐扶佐義 経歴

かい ふさよし

Kai_portrait.jpg1949年大分市に生まれる。11歳のころ、鶏舎を襲う動物を撃つために空気銃を持ち歩くのを見た姉が、銃をとりあげ、カメラをプレゼントしてくれたのを機に、写真を撮り始める。京都の同志社大学へ入学するが、反戦運動に関わるようになり、大学は即除籍となる。
1972年、仲間のフォークシンガー、詩人、セラピストらとともに喫茶店「ほんやら洞」をオープンする。店の仕事をしながら、友人フォークシンガーの「わいせつ裁判支援運動」の事務局長、「南ベトナムの政治犯を釈放するための運動」にも関わる。地元の商店街で国際交流をめざした「国際交流センター」を作るが3年で失敗。一方、地域住民の生活ぶりをスナップ写真に収め、写真集を出版する。京都新聞紙上で連載を始める。
1978年アメリカのエバーグリーン州立大学で招待展が開かれる。地元・出町では、近所の住民を撮ったスナップ写真(キャビネサイズ400~2000枚)を鴨川べりに貼り出して「あなたも写っていませんか?写っている人は最終日にタダであげます」展という大規模青空写真展を4年間で21回開催。
1981年、喫茶店経営の場から離れ、写真を活用して京都市経済局で民間経営コンサルタントを勤める。
1985年、バー「八文字屋」をオープン。営業も兼ねて、店を訪れる美女たちを撮るようになり、1991年より毎年、美女写真集「八文字屋の美女たち」を自費出版。長男誕生後からは子ども写真も多く撮るようになり、写真集「狸橋の子どもたち」「KIDS」などを出版。
1997~98年、京都大学研究員として、隠れユダヤ教徒(マラーノ)のコミュニティの痕跡を求め、インド、オランダ、ドイツ、フランス、スペイン、ポルトガルを訪れ撮影。その結果マラーノがらみの故郷の雑種文化をも再発見することになる。
1999年、「ほんやら洞」経営にカムバック。
2001年、アメリカのウェズリアン大学にて招待展「Streets of Kyoto」が開かれ、その後、ボストン、ベルリン、ジュネーブでも展覧会が開かれる。
2007年、30数年間撮りためた傑作写真をまとめ、友人・知人から集めた「弔辞」「贈る言葉」を自筆のまま入れて編集した「生前遺作集」を出版。
2009年、期せずして、京都の時代風俗を活写した全業績に対して、第22回京都美術文化賞が授与される。
2010年、夏、パリで個展。秋はフランス中央部のアートサロンに出品。年末から2ヶ月間、京都中心部の商店街組合が企画した街灯写真展(「河原町グリーン商店街 "アートプロムナード行灯写真展"」河原町通四条~五条間の各街灯・約140灯に写真を入れる)を開催中。
その他、日本国内での個展は京都を中心に、北海道から九州まで、30年間で100回以上開催し、展覧会会場は、美術館、ギャラリー、書店、寺院、大学、飲食店、野外など、多岐にわたる。
写真集・共著は40冊以上。
現在、喫茶店、バーの2店を経営しながら、写真家活動、執筆活動を意欲的に行っている。

1949
4月18日 大分市上野生まれ
1953
4月28日 父の転勤のため、大分県速見郡山香町大字倉成字又井金堂に転居
1956
山香小学校入学。同時に、養鶏、畑仕事手伝い。連日4Hクラブへ野菜搬入
1960
姉の恩師有田先生の遺品からカメラ、オリンパスペン(ハーフ・サイズのフィルム)入手。岩波写真文庫、折口信夫全集にも出会う
1967
11月 TVニュースの「イントレピッド4」の会見に感動
1968
同志社大学法学部政治学科入学(即除籍)。連日アルバイト、デモ等で明け暮れる
1969
5月14日 脱走兵D・E・デニス逮捕抗議活動に遭遇、ベ平連の運動に参加。北沢恒彦に会う
1970
5月5日 岩国基地付近での凧あげ大会(ここでの拠点づくり計画を知る)に参加
1971
北沢恒彦さんの京都市経済局中小企業指導所の第一回広域商業診断(山科区)を手伝う
5月、中尾ハジメに会う。ダグラス・ラミス、中川五郎、西尾志真子など、のちのほんやら洞開店時の主要メンバーに中尾宅で順次会う。中尾さん宅で過ごすことが多くなる
8月、中津川での第三回全日本フォーク・ジャンボリー会場で、岡林信康、早川正洋、渡辺浩平などにも会う
暮れ、北沢恒彦、中尾ハジメとともに、岩国市内の反戦喫茶づくりに参加をきめる
1972
1月初め、大工手伝いとして岩国入りする
2月 岩国から京都に戻ると同時に寺町今出川に貸し物件を発見。早速、借りて喫茶店をやることを決定。金沢、東京、大阪からも仲間がかけつける
10月 「思想の科学」誌への「からだから見た自分史」没になる。(那須正尚氏に会う。12月号の履面対談『家庭を疑う』に出席するもほとんど喋らず)
12月 祇園の串カツ屋「花ぎおん」中尾ハジメと改修工事
北沢恒彦、中尾ハジメ、井上美奈子とともに月例の国際情勢等についての勉強会始める(スーパー、百貨店の衣料についての国際戦略をレポート)
1973
1月 北沢恒彦氏領導のもとに「労働者解放団」(野火)結成
4月 ほんやら洞初期メンバー、早川正洋を除いて皆、離脱
この年、小野修教授宅の子供部屋改修、小野誠之弁護士事務所の本棚つくり、渡辺武達氏宅書庫づくりなどを手伝うも、無能ぶりを露呈するのみ。ポール・グッドマンの「People or Personal」と「Five Years」の訳に専念
4月 中尾ハジメ、寺田勇文とともに「南ベトナムの政治犯を釈放する運動・京都」をたちあげ、パンフづくり。この会は飯沼二郎氏が引き継ぐ
11月 河原町塩小路の鳴尾靴店の下宿づくりに参画
1974
4月 ほんやら洞、早川正洋離脱とともに福山慈子、中尾ハジメとともに復帰。山内陽子参入
ほんやら洞英語教室(教師は片桐庸子、Stephan Gibsら)開講の事務
中川五郎フォークリポートわいせつ裁判を調査する会の事務局仕事
1975
「コミュニティの会」結成。メンバーは北沢、中尾、甲斐のほかに、須山節郎、横川澄夫、中山容、北沢恒も随時加入
1977
初写真集「京都出町」(ほんやら洞)出版
4月18日~10月15日の間、こわれたカメラで撮りまくる
6月「女と子供のいる情景」(京都新聞、文・林恭子記者)連載
夏、「月刊少年補導」(大阪少年補導協会)にフォト&エッセイ連載
1978
佐野正明氏主宰「京都写真倶楽部」のグループ展に出品(ギャラリーカト)
「ほんやら洞ニュース」改め「出町世界」発行
6月 ワシントン州立エバーグリーン大のライブラリー・ギャラリーで個展「Living beside the palace」
7月 第一回出町界隈あなたも写ってませんか展」(以後、82年まで鴨川べりで23回開催)
北沢恒彦編「思想の科学」『特集・商人世界への視角』に寄稿
1979
4月 AA作家会議主催金芝河「苦行」をめぐるシンポジウム事務方
秋、大阪の自主管理会社・山科鉄工およびその周辺の撮影をくりかえす
出町商店街の大型店出店阻止運動にコミット
秋、ニコラ・ガイガー、中山容、中尾ハジメとともに「出町国際交流センター」(下鴨蓼倉町)設立。スタッズ・ターケルの「仕事!」(晶文社)共訳で資金づくり企画
「でまちニュース」(出町商店街青年部)発行
「リベラシオン」を読む会。ジャック・ラローズ、アラン・ルマット、鵜飼哲、北沢恒彦、中尾ハジメ、甲斐
京極小学校110周年記念タイムカプセル委員会に出町写真プリント800点寄贈
1980
出町商店街周辺でのまつり提案(千人委員会代表・「出町ふれあい広場」事務局長)
「日刊出町ふれあい広場準備ニュース」編集、発行(50号まで)
1981
ほんやら洞離脱。京都市経済局のコンサルタントの仕事に専念するかたわら、ゴースト・ライター始める。北沢恒彦著「自分の町で生きるには」(晶文社)をプロデュース
無党派京都市議候補鈴木マサホの事務局の事務長にかり出される
1982
「日刊第3回出町ふれあい広場準備ニュース」編集(113号まで)
1983
雑誌「太陽」にエッセイ「ありふれた町・京都的な町・出町」(写真・東松照明)執筆
1985
ヤポネシアン・カフェバー「八文字屋」オープン
京都新聞の中村勝記者に会う(90年代から2000年にかけて京都新聞紙上に「京都見たまま」「京都美人地図」(以上、フォト&エッセイ)「京都道草の景色」「甲斐扶佐義と歩く・京都行きあたりばったり」「京都行きあたりばったり・甲斐扶佐義写真館」(文・中村勝)などをほぼ継続的に連載)
1988
「八文字屋通信」にダイアン・アーバス伝の訳連載
1990
長男、日向太誕生
1992
雑誌「太陽」京都特集企画参加・執筆
京都市経済局中小企業指導所30周年記念で民間優秀コンサルタントとして表彰される
南アフリカから初来日の写真家、ヴィクター・マトムと対談(京都国際交流会館)
写真集「地図のない京都」(径書房)出版
1993
写真集「美女365日」(東方出版)出版
1994
アサヒグラフ「建都1200年特集」にフォト&エッセイ
建築雑誌「新建築」に建都1200年特集・表紙・グラビア写真担当
「KYOTO JOURNAL」No.27 文ダイアン・アーストン「KYOTO RAIN」の写真担当。本誌に不定期に寄稿
次男、海人彦誕生
1995
写真2点、文部省検定教科書の「現代文」(旺文社)に採用される
「美術手帖」にフォト&日記「美女日録」
1996
写真集「笑う鴨川」(リブロポート)出版
1997
「建築ジャーナル」表紙写真担当
Egg Gallery「笑う鴨川」展(東京・渋谷)
京大総合人間学部(小岸昭教授のもとに)特別研究員として、インド・ヨーロッパ研究旅行(~1998)
1998
集英社の正月の新聞全面広告に使用される
1999
ほんやら洞へカムバック
「ほんやら洞通信」発行(浜田佐智子編集、14号出し、休刊中)
京大総合人間学部の研究誌(代表・小岸昭)に論文「16世紀豊後のエルドラード伝説とアルメイダ」発表
2001
京都芸術センターの機関誌「Diatxt」に創刊号よりフォト&エッセイ「路地裏の小動物」連載
カナート洛北の1F壁一面に写真投射
クレセール・アートバーグ(札幌デザイナー学院)「京の街角から」展(札幌)
画廊喫茶・櫻倶楽部「Street Cats」展(小樽)
コネチカット州のウェズリアン大学マンスフィールド・センターにて「Streets of Kyoto」展(9~12月)
京都げのむ創刊号(布野修司監修CDL)グラビア写真で「京阪のる人、おけいはん」のおけいはん撮影
「グラフィケーション」No.116にフォト&エッセイ「あなたも写ってませんか」
2002
浜田佐智子監修「浜田房次郎画集」写真撮影担当
ボストン子どもミュージアムに2年間の「京都の子どもたち」展(~2003)
3月 ギャラリー雲母倶楽部「インドちょっと見ただけ」展(大阪・天満橋)
6月 煥乎堂本店ギャラリィ「甲斐扶佐義の京都」展(前橋)
9月 TEMPORARY SPACE「京都 大原口町229番地」展(札幌)
2003
月刊通販誌「茶の間」に「京の猫だより」「京童」連載(現在も連載中)
ベルリン日独センターにて「路地裏の京都」展(野村国際財団後援)
共同通信配信の杉本秀太郎エッセイ(月1回)写真担当
4月 Gallery Conceal「京の街角から」展(東京・銀座)
2004
ジュネーブ、デュプレックス・ギャラリーにて「HACHIMONJIYA MANDALA」展
「芸術京都」(京都中央信用金庫)誌上で秦恒平さんと対談
2005
法然院にて京都フロンティアシンポジウム(京都CDL)講演「僕の写真作法と、エアポケットの危機」パネル・ディスカッション:応地利明、柳沢究とともに(翌年、京都げのむNo.6に掲載)
2006
中村真夕監督映画「ハリヨの夏」に谷川俊太郎、柄本明、風吹ジュンらとともに出演
季刊誌「瞳Photos」(マリア書房)に「京都甲斐物語」連載
9月 ギャラリーマロニエ「Beautiful Women in Kyoto」展(京都・河原町)
11月 おてらハウス「遊びをせんとや生まれけむ」展(京都・仏光寺)
2007
大分県警察官採用ポスター案内パンフレットに子ども写真使用
加藤登紀子ファン・クラブ会報「Seeds Net」に「お登紀さん、藤本さんの文化運動の外縁に立つ」執筆
「猫日和」11月号(日地出版)「京都・美女とネコとブラリ散歩」執筆
「歴史と人物」10月号執筆
月刊「同朋」10月号(東本願寺宗務所)
写真集「生前遺作集」(コトコト)出版
1月 Gallery maggot「on the road」展(大阪・文の里)
1月 集酉楽「愉快なアーチストたち」展(京都・七条)
4月 迦陵頻「CROSSROAD」展(京都・祇園下河原)
7月 ARM.「愛しの美女たち」展(京都・夷川)
10月 柴田悦子画廊「地図のない京都」展(東京・銀座)
京都BALジュンク堂「生前遺作集」出版記念展
関西日仏学院で「生前遺作集」出版記念パーティ&個展
ブックファースト四条河原町店「生前遺作集」出版記念展
2008
「関西Lマガジン」2月号 猫特集執筆
4月 コニカミノルタプラザ「路地裏の京都」展(東京・新宿)
6月 堺町画廊「ほんやら洞界隈」展(京都・堺町御池)
7月 迦陵頻「洛中洛外さんぽ」展(京都・祇園下河原)
10月 写真集「路地裏の京都」(道出版)出版
10月 清水寺・経堂「路地裏の京都---甲斐扶佐義写真展」(京都)

2009
第22回京都美術文化賞受賞
写真集「インドちょっと見ただけ」(ほんやら洞)出版
2010
1月 京都文化博物館「第22回京都美術文化賞受賞記念展」
1月 杉本秀太郎・文/甲斐扶佐義・写真「夢の抜け口」(青草書房)出版
2月 ギャラリーマロニエ「夢の抜け口」展(京都・四条河原町)
2〜3月 ギャラリーマゴット「夢の抜け口」展(大阪・心斎橋)
4月 新宿コニカミノルタプラザ「Kyoto behind Kyoto〜夢のパサージュ」展(東京・新宿)
5月 Galerie Grand E'terna「Kyoto derrière Kyoto」展(フランス・パリ)
6月 Galerie Grand E'terna エマニュエル・ギベールと2人展「Kyoto au-delà de Kyoto」展(フランス・パリ)
6月 ラ・コミューン 個展(フランス・パリ)
11月 ローダン・ラルドワーズ・アートサロンに出品(フランス・中南部)
12月~2011年1月 河原町グリーン商店街「グリーンアートプロムナード 行灯写真展 -美女-」(京都・河原町通四条~五条間)
2011
4月 ソーイング・ギャラリー「路地裏のひなた」展(大阪・星ヶ丘)
7月 関西日仏学館「パリちょっと見ただけ」展(京都)
9月 エスパス・ジャポン「知られざる京都」展(パリ)
12月〜2012年1月 ギャラリー・ゾラ「Kyoto par-delà Kyoto」(エクサン・プロヴァンス)
2012
12月~ 河原町グリーン商店街「グリーンアートプロムナード 行灯写真展 -ねこ-」(京都・河原町通四条~五条間)
2013
3月 「赤ゲット外遊記-フランス篇」(京都・ギャラリーマロニエ),「余りの風に煽られて -フランス篇」(京都・ほんやら洞)
4月 KG+京都国際写真フェスティバルサテライトイベント「賀茂川のほとりで」(京都・SONGBIRD)
9月 「Un Grand First」甲斐扶佐義, Sun Young Min, Hideki Seo 3人展(パリ・ギャラリーTOKO)
12月〜2014年2月「グリーンアートプロムナード 行灯写真展 -京都カイ的名所図会-」(京都・河原町通四条~五条間)
4月〜2014年3月まで、毎日新聞夕刊『京がたり』にてフォト&エッセイ「木屋町から一筆啓上」連載
2014
1月 甲斐扶佐義, ピエール・ラニョー2人展「裂け目 - 都市の魂(原題:"BRISURES - L’âme de la ville, Kyoto, Paris"」(パリ・ギャラリーTOKO)
3月 「マラーノ学者随行記」(京都・ギャラリーマロニエ)
4月 KG+京都国際写真フェスティバルサテライトイベント「ON THE ROAD」甲斐扶佐義, 浜田佐智子2人展(京都・ほんやら洞)
5月 「ヨーロッパ漫遊録」(京都・ギャラリーヒルゲート)
6月 「少年時代(原題:"Le temps des enfants”)」(パリ・日本文化会館)
9〜11月 「京都の人々(原題:"Mensen van Kyoto)」(ライデン・日本博物館シーボルトハウス)
12月 SNBA(仏国民美術協会)ボザール展出品(パリ・ルーブル美術館地下 カルーゼル・ド・ルーブル)。2014年度SNBAパリ・ボザール展ジャン・ラリヴィエール賞受賞



(聞き手:浜田佐智子)

●散歩

(甲斐さんの代表的な写真は、散歩中に撮っているものが多いようですね?)

もともと散歩なんて観念のない世界で、犬コロが走り回るような生活してたのが、都会にきて、孤独な散歩者の夢想のルソーやないけど、カメラを持たずともやたらうろうろしてた。最初は散歩しかなかったのよ。
知ってる? ホワイトヘッドっていう論理学者が、論理学上の発見の楽しみや友人の著作から目をパッと開かされるよりも、毎日朝起きて家の周辺を散歩してて、あそこの木が今日は倒れてるとかの発見の方が自分の人生にとって楽しみが大きいといっていたけど、偉い人をダシにするのはおこがましいけど、その点ぼくはすごく恵まれた生活をしている。毎日が小さな発見の連続、ほんまに。

(そういう発見を求めて散歩しているわけですか)

そうね。70年代にカメラを再開したときは、意識が外へ外へと向かっていた。毎日、物珍しいことばかりに出会った。
それからしばらくして、散歩中に写真を撮るときは、その場にぼくがいなくなって何十年か後にきて、その時懐かしいと思う写真を撮ろうって思っていたかな。それと、1968年に京都にきたときの、思い出のある場所を巡って、そこでいい写真が撮れるかどうかっていうチェック、これもおもしろかった。過去を巡っているつもりでも「今」が露出して。ノスタルジー狙いだけではロクな写真は撮れてないんやけど、結構消費されているステレオタイプのノスタルジーを参照するのもおもしろいね。それは初歩ね。京都のいろんなところで苦しんだり、悲しんだりした人に受け入れられたり、心ならずも京都から離れた人が、また京都に来る機会があったり、「ああ、こんなとこあった」って共鳴して京都を再発見したり、しみじみするような写真を撮りたいって、いつしか思って散歩をするようにもなりましたね。

(だから甲斐さんの写真ってみんな、見た時に「懐かしい」って思うんですね)

そう思っていてもうまくいくとは限らないよ、もちろん。数少ないぼくの職業意識の誕生ね。

(とても日本的なのに、外国の人が見ても、懐かしいと感じるのはどうしてだと思う?)

エルスケン、ウォーカー・エバンズ、アッジェ、なんか自国の市民にも人気があるんやろ。彼らの写真を見て、ぼくも感動するし、それは五感など人間の普遍的な感覚に訴えるのと同じじゃないの。映画では、ホウ・シャオシェンの「非情城址」は、1950年代の台湾を舞台にしたものやけど、これを見て、ぼくはつよい郷愁を感じるしね。「九州の1950年代と同じや」と思うのと一緒なんちゃう? デ・シーカの「自転車泥棒」をみても、強い郷愁をぼくは覚えるよ。

(カメラやプリントへのこだわりはあまりないようですね。ネガや画面が汚れてても、傷ついてても、平気?)

それはいいすぎ。でも、そんなものを超えて撮りたいものがあるんだという強烈な意識があったのかな? その意識の裏には幼児性が色濃く張りついているんやけどね。ま、技術軽視は最近少し反省しているけど、それに居直っていたかな。

(きれいなものを作ろうとは考えない?)

いやいや、きれいなものを見たら、きれいなのいいな、と思うけど、きれいな写真なんか若い頃は目に入ってなかった。
言ったっけ? 小学校の1年生にみんなきくやん。「将来何になりたいんですか?」って。そしたらみんなが「社長」とか「看護婦さん」「先生」とかいうやつ。ぼくは「馬車曳き」って言ってた。

(人とは違うことを?)

違うことを言おうなんて意識、ぜんぜんないよ。環境がまったく違っていたんや。片腕の馬車曳きのおっちゃんがかっこいいと思ってたんや。かわいがってもらってたしね。盲目のおばあちゃんとか周辺にいて、そんな世界にどっぷりつかっていた。
小学校入学したときのランドセルを中学校3年生まで背負ってたって話、したっけ? それはやっぱり、防衛反応ってやつで。いつしか、そういう自分の内面に踏み込まれたくないって、ある種、演じてたようなところがあったと思う。社会的不適応が、写真にはしらせたのかな?

●世代と性格

(そういう自分の性格と写真とは、どういうふうに関わっていると思いますか?)

団塊の世代は、戦後の何もない時に生まれた、ミルクがやっとあるくらいの世代で、そこから日本の社会が復興していくんやけど、個人の成長と社会の成長がピッタリくっついてくると、今の過ごし方がそのままでいいんだと、自分の動きや認識すべてを肯定するような傾向があった。それですべて通してきてるから、世代とか時代に対するある種の信仰がある。メチャメチャなままやってきてるんやけど、そのままでいいんだっていう。ぼくの写真もその産物かな。同世代の仲間と自分はちょっと違うんやけど、変な自己肯定はあったかも。他の人は普通、ドロップ・アウトなどせず、こわくなって就職したりいろいろ考えるけど、ぼくは何か、底が抜けてるんや。自然に脱落していったみたい。劣等性の強みかな。これにもいろいろ問題はあると思うけどね。
馬車曳きの次に、何になりたいと思ってたんかなって夕べ考えてたら、中学校の時は平凡なサラリーマンになりたいって言ってたのを思い出した。親父みたいな平凡なサラリーマンって。家にいたまま何もせずに、畑やったり釣りに行ったり、それが平凡なサラリーマンの生活やと思ってた。これは取り違えてた。高校の時は現実的にちょっと考えてて、運動選手としては体がかたかったから、中学か高校の体育の教師くらいやったら遊んで暮らせるかなって、思ってた。

(基本的に遊んで暮らしたかった?)

そうやね。そやけど、社会的な変動が大きい時代でもあったので社会に隙間がいっぱいあった。そのなせるわざかな? 一人前ではないのに、仕事意識の強い人に囲まれていると、一人前の自分を夢想することもあった。だから、都会に生きてジャーナリストになりたいって思いもあったかな。それに向かって自分で手立てをやるっていうことは一切なかった。田舎に戻りたいという気持ちも、少し芽生えたりもした。大学入って、一瞬、ジャーナリストかなって思ったけど、世の中大きく変わってる。その渦の中に飛び込んで何かしたいと。そんなこと思っても思うようになるわけないわって。自分の立場を合理化して与えられたレールの上に乗っていくよりも、自分の感覚で選びとる、与えられた明晰さより、曖昧でも好きな方向にいこうって。とにかく与えられたものは基本的に拒否しようって強迫観念をもつようになってしまった。ちょっと教条主義的にね。そう思ってて、仲間と一緒に店をやるんやけど、店をやってると自分がどういう役割をするかっていうのがついてまわるわけ。店をやってるのに、店のことはそんなに興味なくて、若いときあんまり本を読んでなかったんで、本を一生懸命に読みたいとか、詩人や歌手仲間に対抗して、オレもひとかどの人間になるんやって、内心気負っていた。沸々たるものがあったなあ。具体的に手立ても何もないのにね。そのとき知恵があったら、「マグナム」を目指すというようなことがありえたかどうか、ようわかんないけどね。そういうモヤモヤの気分のなかで「洛中洛外図」のような写真を撮りたいとか、漠然と考えていたけどね。興味が未分化かつバラバラだけど、自己流にまとめるんだっていう意識が写真とは別にあって、わけのわからんメモばっかり書いてた。だから商売人としては不適格やね。

(店内をみたらわかるけど、散らかす才能があるような気がします)

片付けようって意識がないんやね。

(出したものは元の場所に返せばいいものを、それが出来ない。見たらポイって感じ。だからドンドン散らかっていって、片付かない。たぶん、その片付けられない部分を、誰かにやってもらいたいっていうところがあるんじゃないですか? 私はそうやって何度も片付けているけど、甲斐さんはいつまでたっても何度言っても、自分では片付けることができないんですよね)

痛いところを突くね。そう、自分と全く正反対の性格を女性に求めてることは確か。自分ができないことを補ってもらうという甘ったれたところがあるね。「美は乱調にあり」なんて格好つけにうそぶいたりしながらね。これは強弁かもしれんけど、この性格がいい写真を生むという面もあるかもよ。これ、と思うもの以外をポイポイ捨てていった結果として。
写真のおもしろいところっていうか、落とし穴っていうか、写真は、そんな奴でもちゃんとしたものが撮れるんだ。パッとイメージして、パッと押したらパッと写るところがあるから、ぼくのようないい加減なやつにもできるような。でも、一枚の写真ができ上がる過程がものすごく複雑で、それこそ統率力も必要で、管理能力がある人じゃないとできないんやけどね、実は。

(時代を意識した写真を撮るようにしていた?)

エスタブリッシュメントっていうか、既成の美術観念というのは、時代によって変わるもんやない? その時代時代の支配的なものに対する反抗はあったよね、なぜか。美は時代で変わらないっていう意見もあるけども、流行や時代の圧倒的な支配的な考えをぼくも壊したいという思いがさして高尚ではないけどあって、70年代初めの写真は少し、ぼくも、行儀良かったけど、それは本意ではなかった。本当は、そこらじゅうにほころびがあったり、中心がいっぱいあるような写真が好きなんや。構成的に少々破綻があってもね。写真界の流れに対する異議申し立てという意識もあった。流通しているイメージとちがうものを提示したいとかね。そんなにうまくいかなかったけど、中平卓馬などの「プロヴォーク(provoke)」の存在は知っていたけど、近づかなかった。最初、撮り始めたときからそうやった。
展覧会でも、その辺のギャラリーで仰々しく額縁でやるなんて、ケッと思ってて、やるんだったら直に貼って、人にあげるわとかいって、始めたときからあったわ。それで、青空写真展をやり始めた。ある種、写真が生きたメディアっていうか、道具みたいにならんかったら意味ないんちゃうかなって。ちょっと幼稚な考えやけど、幼いながらも初発の段階でそういうイメージはあったかな。

(甲斐さんは写真を芸術と思っていない?)

ぼくが芸術といっても様にならんよね。まあ、ここまできたら、その周辺のことを考えて芸術といったりもするけど。最初に、家族アルバムありきで、あるいは集団、あるいは素朴なコミュニティーとか、そういうものの、アルバム的なものを自分に課していた。今はちょっと微妙にねじれはじめてるんやけど。それには、ぼくらの世代特有かどうか、階層もあるけど、うちにはほとんどアルバムが家になかった。欠落感がバネになっているかな。あるのは親父の戦争の写真ばっかりや。親父に対するすごい反発があったし。それを補うものが、写真って、どっかにあったかも。

(小さい頃から写真に興味があった?)

結構ね、小さい時からカタログ的なものに興味があって、姉が「生前遺作集」の中に書いてたけど、メンコとかプロ野球選手のカードとか、全部集めて、空想の組み合わせで整理して並べてた。小学校時分は、もらうノートでも、全国各地の農産品の写真があって、それが何十都市も入っている、そういうノートが大好きで、いつも持って歩いてたね。小さい、狭い世界で、そこだけでいなさいと言われたら、その中に閉じこもってものをいじったりする能力はある。ある規模を超えて、いっぱい、いろんな変数が入ってきたらちょっと混乱するやろうけど。オタクの、ある種コレクター的な要素もあると思うわ。

(それを聞いてたら、写真集「美女365日」もそういう感じがする。美女のカタログ的な)

そうやね。自分がひとつの美のヒエラルキーや、中心軸をつくってまとめるという意識ではない。いや、バラバラなのじゃなくて、自分という存在はいろんな意識の束だっていう感覚の方が強いんかな。あれも好き、これも好きという感じ。いろんな関心もぼく固有という感じではない。自分が他人の集合という意識がある。でも、個人的な変な関心のコードがいっぱいある。

(それを写真に撮りながらまとめようとしている?)

歩きながら、「あ、これはこのコードに入る」「あ、今度はこれに合う」と。バラバラにあるコードに引っかかるんが嬉しくてしょうがない。「これはこの引き出しに入る」なんて考えるだけで嬉しくなる。現実は、撮ってそのまま引き出しに入れんでそのまま放ったらかしにしたりしてるけど。
話は変わるけど、商業写真集に出てる写真よりも、ぼくは写ってる人と、撮った人の属しているコミュニティ内でも共感が得られるのがええなあっていう思いがずっとあったね。固着で流通しているメディアについての理解、社会に対する無理解がそれの後押しをしている面もあるけどね。まあ、いろいろ短絡的やね、ぼくは。

(甲斐さんは自分の手の届く範囲のものしか撮らない。例えば、甲斐さんの写真に写っている人は、どういう素性の人か全部説明できるような。そういうものを写真にしたいと思っている?)

70年代はじめは、そういうあり方が好きだった。1980年くらいはもっと大雑把に、投網を打つような大づかみな社会的視点をもてるようにと少しあがいた。京都中、各区全部、くまなく回って、これが京都だっていう感じで本を出すっていったら、晶文社の編集者から「アホかお前、そんなことより今すぐあるこれだけで出せばいいやんか。40年後には意味があるぞ。そんなペースで撮れ」と言われもした。そのときぼくは、いや、一応つぶさに京都全区回って、自分の好きなイメージを撮るんやとか言ってたけどね。それは最初、写真集を出したあとに、壊れたカメラで猛烈に撮って、失敗していたので、その反省というか、あせっていただけかな。

●撮影法

(すれ違い様や、知らないうちに、いつ撮ったかわからないような撮り方をしますよね。それでもしっかり画面ができているし、よくブレないな、と感心するのですが)

ずっと社会の影のような存在だったから、その特性を活かして、気づかれないように射つという欲望がずっとあったよね。そういう者として写真を撮るということね。写真撮影がうまくいくようになると、写真に他のものをくっつけて物語をつくることにも関心を持ち始めた。青空写真展からね。
そうそう、70年代もそうやけど、85年から、けっこうぼく、日記を書く習性があって、その日、いろんな人がしゃべったのを、覚えてて、帰って2時間でも3時間でも、一日に30ページぐらい、いろんな人がしゃべったことを全部書くこともやっていた。だから、周囲の動きに介入せず、状況をカッコに入れたまま、一歩身をひいて自分周辺の状況を記述しようとした。写真でもぼくは主体的に参加せんで、その場をまるごと撮ってそのままこっそり持って帰っていたいっていう、そういう写し方、欲望に即すると同時に、普通では性格的弱点と思われることを強みに反転させることに、70年代からずっと関心を持ち続けた。ぼくのブログにも、その片鱗は少しあるよね。

(それは自分の存在を消してっていうこと?)

その姿勢も変質していったかな。そのままだったら女性との関係ができないしね。そういうジレンマは幼い頃からありましたね。それは控えめな性格のせいもあるし、繰り返しになるけど、状況を矛盾も含めてまるごとつかみたいのね。
どんな人であれ、辛いとこで頑張って生きてる人に対して、敬意を表していたいと思ってるから、その場を壊したくない、邪魔したくないっていうとこがあるよね。逆な思いもときには働くけど。立ちションしている子どもにどなってみせたりね。写真においても、盗み撮りみたいなことが好き。正面から、バッチリ撮らねばならない時もあり、そういう撮り方も場合によってはするけど。

(本当は直視したいけど、そうしたらちょっと失礼だと思ってしまう? だから真っ向からじゃなくて、ちょっと違うところからスッと撮るみたいな撮り方をする。さりげなく)

そんなのが好きですね。基本はシャイ。プラス自分の欲望がバレるのがこわいというのも当初はあった。「美女365日」撮ってるうちに、男としての自信を持つように、やっとなったのかね、ホントに。
写真の用語としては "キャンディッド(candid)"っていう。「盗み撮り」っていう意味。それは、現実にはそうじゃなかったらしいけど、木村伊兵衛や土門拳なんかも、それを理想にしてたとかいうのはきいてるけど、実際、それも神話みたい。難しいよね。

(木村伊兵衛でも、ポーズをとってもらったりしてたみたいですしね)

そう。秋田の、おっぱいをやってる写真も偶然撮ったみたいなこと言ってるけど、何回もやったりいろいろ、尻に砂をつけたりなんかやったりね。

(ドアノーもね)

でも、ぼくは、パン!と、サッと撮る。一瞬に撮る。その方が、気分いいことはいい。

(甲斐さんは、こういうポーズをとってくれという要求はしない?)

時々したいことはあるけど、基本的にしない。同一画面の中で、てんでバラバラな動きが写ってるのが大好き。

(偶然的にそうなるのが好きっていうこと?)

そういう中心がいくつもあるようなシーンに、カメラを持たずに散歩している時に見たら「しまった!」っていつも思う。

(そういうシーンを見つけられる目がある)

そういうのが好きやからじゃない?

(たぶん、それが他の人にはない、見方なのかなって思う。例えば私が甲斐さんについていって、同じ場所で同じシーンを見たとしても、甲斐さんの写真のようには撮れない。普通の人はひとつの要素しか見つけられない場面でも、甲斐さんはいくつもの要素を見つけることができる)

まあ、社会観についても、多元的社会が好きですから。強引に言いすぎた?

●京都の街

(「京都」で写真を撮り続けるのはなぜ? 伝統があるから興味深い?)

ぼくは千年の都・京都っていうよりも、普段生きている人らからつくり出している京都っていうのが興味あって、それと、歴史的な伝統なりいろんな重層的な文化を、映像的にちゃんととらえることができたら嬉しいと思ってるんやけど、なかなかそんなうまくいかない。まあ、伝統的、千年の都には、最初は違和感がつよかった。京大の内藤湖南さんが1922年ぐらいに書いた「日本文化史論」ていうのがあって、それがめちゃめちゃおもしろくて、ぼくはまあ、自分としては、応仁の乱以前と以後の京都は全く違うんだ、って。京都の伝統とかは、あの乱で断絶してるというの。その前から連綿と続いてるなんかいうんは、あれはインチキだ、って。今の京都っていうのはほとんど、応仁の乱以降の伝統を守ってるっていうのかな。お寺とか例外もあるけど、それもほとんど焼けたりなんとかなって、修復したりしてる。無理矢理、昔の形をつくろうとしてもね、伝統でも都市計画でも崩れていった歴史とか、崩れてるポイントとかにある種、ぼくは希望を見出して、そこからまた何をつくれるかっていうのに関心がある。

(その変わってきている、新しくなってきている所も、おもしろいと思っている?)

そうそう。黒川記章のメタボリズム、新陳代謝じゃないけど、変化の相の下の街。その街の底に沈殿する澱のようなものがもつエネルギー、潜勢力について考えるようになったんは、やっぱり商店街診断ていう仕事を始めてからやね。この町はどんな町かなって。いや、青空写真展が転期かな。この町がどうなったらもうちょっとよくなるのか、とか。どういう形で何を加えたらいいのかっていうことを、京都中をほっつき歩きながら、絶えず思ってた。街は何十年おきか、10年、20年ぐらいたったらボロボロ壊れて行く。行政からも下からも、町をつくり変えようという動きが相克する。無責任にきこえるかもしれんけど、そういうガタガタやゴタゴタがすごくおもしろい。そのほころび目に、その断層に、いろんな歴史の真実が見えるというか、またそこから、つくるヒントが見えてくるんじゃないかな、と思ってます。

(街のほころびが創作意欲をかきたてる?)

やぶれかぶれでも一点関心あることにかけることから何事も始まるんや。まず、動くこと。フランスのジャン・ポール・サルトルの言葉、『自由っていうのは活動家のためにある』っていう言葉がけっこう好きなんやけど、やっぱり、つくる者に福があり自由があるんやね。

(じゃあ完成してしまったらもうおもしろくない?)

いや、それはやっぱり、永久に完成してしまうってことはないと思う。

●影響を受けた写真家は?

フランスでは、カルティエ・ブレッソン、ロベール・ドアノー、ブラッサイなど。日本では、宮本常一、小沢昭一、桑原甲子雄かな。アメリカでは、ルイス・ハイン、ダイアン・アーバスにもインスピレーションをもらった。
そうそう、影響あるかどうか分からないけど、アイザック・シンガーの「ワルシャワで大人になっていく少年の物語」の口絵写真が昔、ずっと気になって、だいぶ経ってからわかったローマン・ヴィシュニアック。街を撮る時はいつも気になるね。いい写真家、好きな写真家はいっぱいいるよ。

●今後は?

撮りためているネガに向かいあうこと。これには忍耐と、その間の評価が必要かも。それが最大の楽しみ。いくつもの写真集ができるでしょう。
もう歳が歳だけに、できることを逆算して、写真以外のことを切り離していくつもり。
とはいっても、外国から声がかかったら、じゃんじゃん出て行きたい。2012年のライデン大のシーボルトハウスで8週間やってくれるというのも楽しみにしている。アジア、中央アジアにも関心があります。

聞き手・編集:浜田佐智子(甲斐アシスタント)
*このインタビューは2010年5月のパリ展覧会パンフレットのために作成したものです。

『八文字屋の美女たち』甲斐扶佐義(八文字屋刊、1994年)

 八文字屋は、京都の木屋町にある酒場です。作者の甲斐さんはそこの店主で、1949年生れ、大分県の出身です。
 4、5年ほど前に京都に寄ったとき、「写真の好きな男がいる」ということで友人にさそわれ、その店に行きました。本やいろいろなものが座席のあいだに積み上げられ、大散らかしの店でした。店主はカウンターの内側でツマミをつくり、グラスを洗い、そのあいまに一杯やっており、アルバイトらしい女性が手伝っています。客は連れと、それぞれ勝手に呑んでいます。私はカウンター席に座り、すこし話をしましたが、ボソボソと口数の少なく摑みどころのないような感じで、おもしろい人だと思いました。
 そのとき、この写真集を買ったか、もらったかしたのです。甲斐さんの写真集は手もとに9冊ありますが、どれがもらったものであるかは忘れてしまいました。著者は、自分の本は割引で出版社から買うことができますが、高い経費がかかっていますし、自費出版となると出費はなおさらです。私はできるだけ、お金を払って本を買うようにしています。94年版は3500円で、四六判138ページ、モノクロです。裏は白紙で写真説明がついています。魅力ある女性たちが、大勢登場しています。
 『八文字屋の美女たち』は、94年版以降も毎年出版されていて、そのたびに魅力ある人々がページを飾っています。そこに登場するすべての人が、自然な表情をしているのが良いのです。これは撮影者に対して、人々が気持を開放しているからです。まさしく甲斐さんが心で撮った写真集といえます。店で撮った写真は、呑んでいい気分になっている女性たちの心境が、写真に表れています。おそらく撮っている甲斐さんにも、お酒が入っているのでしょう。
 甲斐さんのカメラは古い「キャノンFT」で、レンズは標準の50ミリ一本です。彼の写真の世界は、このカメラとレンズの組み合わせから生まれています。50ミリレンズを使うのなら、ライカのM型にしたら“かっこいい”だろうと思いますが、彼はこの旧式カメラを使うのです。あれこれとカメラの機種やレンズを換えるより、レンズをひとつに決め、そこから生まれる影像をしっかり自分の表現方法とすることも、たいせつだと思います。
 いったい甲斐さんはアマチュアなのでしょうか、プロなのでしょうか。彼は、1977年に初めての写真集『京都出町』を出版、『笑う鴨川』(リブロポート)、『地図のない京都』(径書房)、『美女365日』(東方出版)、『京都 猫の泉』(白地社)、『On reading』『ツー・ショット』(いずれも光村推古書院)など、すでに34冊の本(うち26冊は自費出版)を出版しています。なかには、有名な出版社から刊行された写真集も少なくありません。また、『京都新聞』に連載もしていて、実績からいえばプロ中のプロと言えます。
 しかし、私たちのように撮影で生活し、それを成り立たせようとあくせくしているプロとちがって、酒場「八文字屋」の収入で生活し、写真はマイペースで好きな対象を選んで撮っている点ではアマチュアです。文字だけの本より、写真集は出版にお金がかかります。彼は出版社の印税と店の収入から、生活費以外のすべてを、大出費が確実の自費出版にあて、次々と写真集を出したのです。私は、甲斐さんはアマとプロとの“谷間”で仕事をしている理想的なカメラマンだと考えています。
 自分をプロ、アマどちらと考えているか、甲斐さんに聞いてみました。
「そういうことは、あまり考えたことはないですね。プロとアマのちがいは、プロカメラマンは写真で“食べて”いるのではないですか?」
「出版社からもたくさん本を出されていますが、カメラだけで生活できると思いますか?」
「できないでしょう。撮った人に写真や写真集をあげたりすることが好きだからです」
「なぜ古いカメラを使っているのですか?」
「カメラを買ったことがないのです。17年前にガールフレンドからもらった中古のカメラを使っているのです。その前も、もらったニコマートでした。新しいカメラを買うお金もないし」
「写真集には大勢の人物が登場しますが、そのようなモデルとどのように出会ったのですか?」
「ほとんどが店のお客さんか、友人の友人です。一日3、4時間、京都市内を自転車でまわっているので、その人たちと道でぐうぜんに会うことも多く、そのときに撮影します。あとは店で」
「みんないい表情ですね。何かコツがあるんですか?」
「一緒に酒を呑んだり話したりしている人が多いので、気軽な気持でいるのでしょう」
甲斐さんは撮影を、写真集づくりを楽しみ、その本を人にあげて、またよろこんでいます。店の経営もそう楽なことではないでしょう。生活のために仕事で苦労し、写真は楽しむ―この方法を私は皆さんに薦めたいのです。

[石川文洋 著「写真は心で撮ろう」(岩波ジュニア新書)第6章『アマチュアの写真集から』(p.76-80)より引用]